数年に1度、芥川賞受賞作品掲載の「文芸春秋」を買います。
前回は4年前、金原ひとみ・綿矢りさという二人の若い女性が受賞、というので評判になった時です。
私的には、金原ひとみの「蛇にピアス」に、新しい才能を感じたのを憶えています。
そして今回、諏訪哲史の「アサッテの人」を読むために4年ぶりに文春買いました。
なぜこれを読む気になったかってゆーと、この
アサッテ、にひっかかってしまったのです。
子供の頃よく親に、「そんなアサッテの方見てたらあかん!」と叱られてたことを思い出したのです。
そのアサッテは、今日でも明日でもないイツカであり、ここでもあそこでもないドコカであり、要するに、焦点の定まらない、ゆめまぼろしの謂いであったと思います。
考えたら、「キョウの人」「アスの人」と違い、ずいぶん「アサッテの人」というのは意味合いが違って、けっして誉めことばにはなり得ません。
さて第137回芥川賞受賞作品の「アサッテの人」、素人の私が言うのもおこがましいのですが、手の込んだ新種の私小説かな、と思いました。
吃音に苦しみ、意味不明なことばを発するアサッテの人と呼ばれる叔父の日記、あるいは、今は亡くなった叔父の妻からの聞き書きなどを題材に、作者が小説を書いている舞台裏を見せつつ書かれた小説、というヤヤコシサなのですが・・・
私小説と言っても、日常が書かれているワケではなく、作者の非日常、心象風景や哲学的思考がストレートに書かれているのがフィクションではない、と言う意味です。
だから、この「アサッテの人」が小説として面白いか、ということでは私的にはあんまり・・・
ただ、諏訪哲史という人の才能は感じられるので、これからよい作品が生まれることを期待します。
芥川賞というのは新人の登竜門だから、言ってみればアサッテではなくアスの作家というワケです。
でも、第120回1998年芥川賞の平野敬一郎の「日蝕」は、新人とは思えぬ完成度で、なぜかゾクっとしたのを憶えています。
なんて、、、、、エラそに言ってすんません。
私としては、たんなる一読者として、面白い小説が読みたいだけ、なんでございまする。