今年はなぜか、いつもより読んだ新刊の冊数が少ないうえ、記事数はさらに減っている。
だんだん書くのが大儀になり、つい後回しにしているうちに印象が薄れてしまうからである。
そしてそのうち忘却の彼方へと消えていってしまうのである。
中島義道著「反〈絆〉論」は、珍しく発売前に知りアマゾンに予約しておいた本である。私的には、ついに出たか!あるいは、とうとう出たか!という思いで、さらに言えば遅すぎの感さえあったのである。
とはいえ、反〈絆〉などと堂々と言える方は、やはり今この国では中島先生くらいではないだろうか。私などそう思いつつもぐっとこらえて言わず、〈絆〉という言葉をいっさい使わないことで自分の意思表示をするしかなかったのである。
ただ中島先生とて〈絆〉そのものを否定されているわけではなく、この国がそれ一色になることに対する反発、あるいは警戒感ゆえのことである。それは〈絆〉に限ったことではなく戦時中を思い起こせばよく分かることである。ある一つの言葉の絶対化が、人々から繊細な精神を枯渇させ批判的に考える力をそぎ落とす。
「いかなるときでも、みんなが同じ気持ちになることには、それについていけない人々を排斥するという危険が忍び寄る」し「いかにすばらしいことでも、それを語る仕方、伝える仕方を考えねばならない、その仕方次第でははなはだしい暴力になりうる」のである。
「その時代や社会において『疑いえないほどよいとされていること』こそ、同時に個人を最も暴力的に圧殺する。これこそが『繊細な精神』の敵、すなわち哲学の敵である」とも。
そして最後に、「自分に居心地のいい〈絆〉を積極的に創ること、すなわち〈絆〉への自由を通じて、はじめて〈絆〉からの自由をこの手に確保できるのである」と書かれている。
さて、極力群れず属さず繋がらず、自分の信念と直感を信じて生きてきた私みたいな人間には、哲学塾「カント」は無理としても、この本を読むと溜飲が下がる心地がするのである。