私が隠居を志したのは今から5年前、横尾忠則著
「隠居宣言」を読んでからかもしれない。その後、天野祐吉氏が学長?を務める隠居大学(ラジオ深夜便)をまとめた
「隠居大学」という本に出逢った。そしてこの度、その続編ともいえる本に偶さか出会い、ついつい読んでしまった次第。
これらはすべて対談集、天野学長と知り合いのご隠居さん、または隠居精神の持ち主を招聘しての楽しいおしゃべり集である。ただし、初年度たるや、横尾忠則、外山滋比古、赤瀬川源平、谷川俊太郎、坪内稔典、安野光雅というそうそうたるメンバーなのである。
新しい「隠居大学」第一集、第二集とも、対談相手のメンバーにはとても太刀打ちはできない。ただ、12名のうち半数が女性なのは、隠居というとどうしても男性を連想することから解放される。そんなわけで、私ごときが隠居と口走るのはおこがましい限りなのだが、厚かましくもいちおう隠居を標榜してはいる。
さて、それでは隠居とはなにか?を、3冊の「隠居大学」から抜粋すると・・・
「原始、『隠居』は遊びの達人だった。若いモンの憧れだった。」から始まり、「隠居への道は一本ではない。隠居になろうとする人の数だけ道はある。」
あるいは、動物はみな一度しか生きられないが、人だけは生きようと思えば、二回生きることができるそうで、一回目は働く人生、二回目は遊ぶ人生だという。そして、「隠居は第一の人生のように世間の規則や常識にしばられることなく、好きなことを好きなようにやればいいのであって、隠居になるための学習や訓練は一切必要としない。」
また、「当学は知識を学ぶ場ではない、知恵を磨く場である。なまじっかな知識は、隠居を目指す人にとって、かえって邪魔になる。そうでなくても老人は物忘れがひどいので、知識なんか学んでもすぐに忘れてしまう。その点、知恵はおでこのシワみたいなものだから、いちど身につけたら一生モンだ。」けだし名言。
隠居を目指してはや5年、まだまだ修行が足りない私は今も隠居志願中である。