昨日の遠方より来る、の友人とは社宅で初めて出会った。当時、私たちはまだ若く、子育て真っ最中であった。しかし、一緒に過ごした期間はそう長くはなく、やがて彼女一家は東京で暮らすようになった。その後、私たちは文通によってより深い付き合いが始まるのである。それはひとえに、翻訳という仕事を持ちながらも筆まめであった彼女のおかげである。
その友人が、ある時期からしきりにメールを勧めるようになった。すでに世の中には携帯電話もあったのだが、パソコンでさえ私には縁遠い存在なのだった。これは以前にも書いた覚えがあるけど、ある日テレビで糸井重里が「パソコンは爆発しない!」と叫んでいるのを見たのと、彼女のオススメのメールなんぞをしてみんとて、思い切ってマイパソを購入したのだった。2000年春のことである。
それから何年かはメールのやりとりが続くのだが、やがていつのまにか回数が減り、自然消滅してしまった。今思うにその頃、私は両親の居る京都通いが始まった時期でもあり、ブログを始めたのもちょうどこの頃なのだった。手紙、そしてメールでなく彼女に会うのはほぼ10年ぶり、一緒に奄美大島へ田中一村の絵を見に行って以来のことである。
さて、今回せっかく倉敷で会えることになったので、かって暮らしたことのあるこの地で行きたい処、会いたい人を尋ねてるうち、子供たちが通っていた保育園のT先生の名前が出て、ふたりの意見は瞬時に一致したのだった。退職後もお忙しくされているT先生に連絡をとったのは1週間前、昨日は午前中の用事を済まされた後、我家にお連れした。地元の私でも約20年ぶり、彼女はそれ以上ぶりの再会なのだった。
とうの昔に廃園になったのだが、子供たちが生き生き、のびのび過ごせるよう配慮の行き届いた保育園で、いつもやさしい笑顔を絶やさなかったT先生。私たち未熟なハハオヤにとって、頼りになる育児のプロであった。私たちは昔話に花を咲かせつつも、どうしても今の子供たちの実態、その置かれている状況の悪化について話題がいってしまうのだった。特にT先生は、現場の実感者としておおいに心配の様子であった。
子供たちに罪はない。あるのはまわりの大人であり、社会なのである。政府は金や太鼓で産めよ増やせよとノタマっているが、数が増えればよい、という問題ではないのである。その昔「日本沈没」という小松左京のSF小説があった。それは文字通りの沈没であったが、今は別の意味の日本沈没が始まっている。日本滅亡、という言葉まで出る始末。ま、それも仕方ないかと、人間滅亡教の私は思う。でも、できたら私が死んでからにしてほしいもんである。
実はこいう話題はブログでは避けているフシがなくもない。なぜならキリがなくなるからである。そして言えば言うほど虚しくなる。でも、せっかく過ごしたイイ時間のことは書きとめておきたいと、思う。
時間よ止まれ。