終戦の日の昨日、急に思い立って宮崎駿監督の「風立ちぬ」を観に行った。
夏休み中なうえお盆休みでもあり、映画館前はお子チャマでいっぱいだったが、「風立ちぬ」にかんしてはそれほどでもなかった。
この映画は今までの宮崎アニメと違って、小さい子どもというよりは中高生以上、むしろ大人向けの映画である。
また、零戦設計者堀越二郎という実在の人物の少年期から青年期が描かれると同時に、当時の時代状況、および風景がていねいに描かれている。
この映画には、宮崎駿というひとりの人間の想いがいっぱい詰まっている。
1920年代の破滅へと突き進む日本、美しい自然や人々のやさしさや思いやりの残る庶民の生活、そして、自分の夢をひたすら追い求める主人公の生き方、たぶん、宮崎駿監督がぜひ後世に伝え遺したかったことではないだろうか。
ただ、私にとっての途惑いは、堀辰雄との関係なのだった。
この映画は、いちおう、堀越二郎と堀辰雄に捧げられてはいるのだが、また、二人を合わせて一人の主人公にした、ということなのだが・・・・・
私的には、「風立ちぬ」といえばやっぱり堀辰雄なのであった。
そんなわけで、家で探せばあるかもしれない堀辰雄「風立ちぬ」の文庫本を見つけ買って帰ったのだが、結局kindle無料本をiPadで読んだのだった。
結核がまだ不治の病だった時代、人里離れたサナトリウムで過ごす恋人たちの日々が美しいのは、光が影によって輝くように死によって生が輝くからなのか。
私には、宮崎監督が「風立ちぬ」というタイトルを付けた理由はただひとつ、「風立ちぬ、いざ生きめやも」というヴァレリーの詩句だったのではないか、という気がするのだった。