先週は、新書1冊とアゴタ・クリストフを4冊読んだことになる。
「悪童日記」からはじまる悪童三部作は、私にとって、ミステリー以上に謎めいていた。
悪童日記のラスト、双子の片方は国境を越え亡命、もう片方は故国に残り二人は離ればなれとなる。その故国に残った少年のその後がこの2作目では三人称で語られる。
しかしその語り口は相変わらず無愛想である。いっさいの修飾語や感情表現は極力省かれる。ただ前作との違いは、主人公にリュカという名前が付けられていることである。
舞台は前作と同じ国境の街であり、登場人物も前作と同じである。しかし、彼を取り巻く、あるいは深くかかわることになる人物もあらたに登場し、人間関係がより複雑になっている。さらに、主人公の年齢が15歳~20歳過ぎまでという、思春期から青年期への多感な時期である。
この「ふたりの証拠」の一番の謎は、双子の片割れクラウスの存在である。
「第三の嘘」は、舞台も同じ場所、主人公もリュカとクラウスという双子の兄弟である。しかし、イキナリ55歳という年齢になっている。しかも、全2作とはどこか違う物語なのである。
1部と2部に分かれた物語は、それぞれ別の主人公の一人称によって書かれている。そして、前作と違いリュカの方が亡命者である。しかも、リュカのパスポートの名前はなぜかクラウスとなっている。前作ではクラウスの存在が希薄だったのに対して、この作品ではリュカのリュカとしての存在は亡命を境に失われたかのようである。
ここでは、本物のKLAUSとリュカであるCLAUSという二人のクラウスが、虚像と実像のように読むものを混乱させる。そして、結局リュカは自ら命を絶ち、クラウスは一人になる。
さて、これからは私の独断と偏見であるが、この三部作のすべて、主人公は一人なのではないか。
人は人生において、右か左かの決断を迫られる。必ず選べる道は一つしかない。けれど、人はしばしばもし別の道を選んでいたら・・・と考える。
歴史にもしもがないように、人生にももしもはないのだと知りつつ・・・
作者アゴタ・クリストフにとって、亡命という体験が、どれほど彼女に深い傷を残したか。
彼女にとって、祖国を失ったと同時に母国語を失ったことが、どれほど大きかったか。
なぜなら、彼女にとって書くことは生きることだったから。
ゆえに、彼女は作品の中で、引き裂かれたもう一人の自分を書かずにはいられなかったのではないだろうか。
「われわれは皆、それぞれの人生のなかでひとつの致命的な誤りを犯すのさ。そして、そのことに気づくのは、取り返しのつかないことがすでに起こってしまってからなんだ」(ふたりの証拠)
今日は疲れたのでこのへんで。(少々頭痛が~)
後の2冊はまたの機会に・・・