夏休みも残り少くなったのに宿題が終わっていない、特に絵日記なんかをサボってると苦労する。
この夏ゴロ読した本をソロソロまとめておかないと、記憶のかなたに飛んでいってしまいそうである。
・・・といっても、これは誰のためでもない、自分のためのたんなる覚え書きなのだが。
暑い盛りは、レイによってゴロゴロしながら本を読んでいた。
いつの頃からか、本を持つとしぜんに体が倒れて横になる、というかんじで寝て読むクセになった。
そうやって、ついつい読んだ本が枕元に溜まってゆくのだった。
夫である吉村昭の発病から死までの日々を、津村節子が作家として妻として、一人称ではなく三人称で書いている。なので、一見小説の形をとってはいるが、闘病記とも看病記ともいえる。
ヒトは自分で自分の死を選ぶことはできない。東日本大震災でのように一瞬のうちに多くの命が失われることもあるが、死までの闘病期間が長く(あるいは短くても)、ある場合もある。どちらも、残された者にとっての喪失感は大きい。
津村さんは、小説を書く女なんて最低だ、と自分を責めている。しかし、いつも側に付きそい、どんなに看病しても、やはり後悔は残るのである。ヒトは、そのとき、自分にできる、精一杯のことをするしかないのである。それぞれのやり方で・・・
この本を読んで、目からウロコというよりは、自分がなんて上っ面の読書をしてきたかと深く反省し、穴があったら入りたい気がした。
夏目漱石と村上春樹が国民作家と呼ばれるワケが書かれているのだが、二人ともその作品の奥には、それぞれの時代の問題が隠されていた。それは、漱石にとっての「日露戦争と韓国」であり、春樹にとっての「60年代と中国」という。
私は恥ずかしながら夏目漱石を全部読んでないのだが、たとえば「こころ」についての記述にはも~びっくらこいだ。かって先生の恋敵であり自殺した同宿のKという人物は、KoriaまたはKorianの含意があるという。
ことほど左様に、小説にはウラのウラがあり、けっしてボヤボヤ読んでいてはダメなのだと肝に銘じてみたものの・・・・・
向田さんの本をもう2冊読んだ。そして気がついた。私は向田さんのエッセイは好きだが、小説(たぶん脚本も)は苦手だということに。
向田さんは、つい身近にある人間の生活を、とくに家族を描いて絶妙である。そして人間の狡さ、愚かさ、弱さを鋭く、けれどさりげなく見せる。向田さんの小説は人間臭さに溢れているのだ。それは、向田さんがそんな人間が大好きだからだと思われる。
一方、私は人間嫌いなのである。そして、自分に一番欠けているのがこの人間臭さなのだと思う。しかし、これはどうも持って生まれた性格なのではないだろうか。また、多少は環境もあるかもしれない。私は姉妹がいないせいか、女の意地悪や苛めに慣れていない。今だに、このトシになっても、である。
人間の醜さも含めて許し、受け入れられるオトナの向田さん。あなたが突然飛行機事故でなくなられて明日で30年。もし今生きていたらどんな作品を書かれることでしょう。
この国はオトナのいないコドモの国になってしまったかのようです。コドモには、時には叱ってくれるオトナが必要です。厳しく優しく、あなたのような。
今日はこのへんで。