先日、図書館から予約完了のメールが届き、そういえば本を予約していたことを思い出した。
私にしては珍しく、そのうち読めればいい、と予約しておいたのだった。
それにしても、天災と図書館の予約本は忘れた頃にやってくる?
そんなわけで、この「リアル・シンデレラ」を読んだ次第。
この小説は、多くの女性のアコガレでもあるシンデレラ物語に違和感を感じる筆者(作中の)が、ある一人の女性を浮き彫りにするドキュメント、という形をとっている。
その女性、倉島泉の一生を、彼女の家族や彼女に関わった人たちからの聞き取りをもとに、その人となり,あるいは人生を焙りだしてゆくという手法。
ただ一人、本人から直接話を聞くことはない。
両親、特に母親からは疎んじられ、病弱な妹の陰のような存在として成長し、まるで自ら世間的な幸福を顧みない泉の生き方に、周りの人間は理解するどころか気味悪ささえ感じる。
しかし、泉自身は微塵も不幸であるとは感じていないようかのようである。
なぜなら、彼女は世間一般の価値観とは違う、別の世界の中で生きていたからである。
幸福とは何か、それは人それぞれである。
彼女のように、自分より他人の幸福のために生きることも、ひとつの生き方かもしれない。
しかし、この物語はそんな幸福な物語ではない、と私は思う。
倉島泉は、子供の頃子供心なりに、自分が生きてゆく処世術を自分自身で編み出したのである。
それは、神がかりのような不思議な体験としてではあるが、自分の置かれた哀しい現実を受け入れる方便として。自分の存在を正当付ける方便として。
倉島泉のその不思議な体験が夢か幻であったように彼女の存在そのものが、シンデレラと同じように、お伽噺であるかのように私には思えるのであった。