川上未映子の芥川賞受賞後初の長編小説ということで、ちょっと興味がわいてしまった。
ミーハーなうえ、宣伝文句にもつられやすいのは困ったもんである。
「乳と卵」は、センテンスの長い関西弁の文体に悩まされたのだが、今回の文章はフツーである。
フツーの意味は、関西弁でもセンテンスが長くもなく、文章自体もきわめてフツーなのだった。
中学校での凄惨な苛めが描かれるのだが、たとえ苛めそのものがテーマではないにしても、やはり遣り切れない思いにかられる。
サディステッィクにエスカレートしてゆく加害者と、マゾヒスティックでさえある被害者があまりに対照的に描かれるのだ。
この小説のユニークなところは、苛められる側の論理と同時に苛める側の論理が語られることである。
苛められる側の論理は、主人公僕と同じく苛められ続けるクラスメイト、コジマの口から語られる。
僕はある日とつぜんコジマから手紙をもらい、その後文通を通して心を通い合わせてゆく。
彼女は、苛められても苛められてもけっして抵抗しない僕に対して言う。
「君は正しい。ただ従っているのではなく受け入れているのだ。それは弱さではなく強さなのだ」と。
苛める側の論理は、百瀬という苛めグループの中の一人の少年の口から語られる。
僕はある日ぐうぜん百瀬を見つけ、自分でも思いがけない行動ではあったが、彼に思いのたけをぶっつける。
しかし百瀬には全く通じないばかりか、彼らが欲求のままに行動し何の罪悪感も感じていないことを知らされる。
詭弁とも言える百瀬の言葉は、しかし、人間の生々しい現実の姿として迫ってくる。
コジマの言葉と百瀬の言葉の間で僕は混乱する。
しかし最後のさいご、コジマは自分の正しさを身をもって証明したあといなくなる。
コジマはたったひとりの、僕の大切な友達だった。
そして、ひょっとしたら僕にとってのヘヴンだったのだろうか???
コジマと百瀬は両極端でありながら、どちらも人間の、ある真実なのかもしれない。
しかし、現実問題として私がどうしても許せないのは、苛めの構造は必ず1対多数であることである。
その多数の中には、苛めに加担しない無関心な者も含まれる。
数の暴力こそ、私が最も忌み嫌うものである。
なので、帯にある涙がとめどなく流れるー、なんてことはさらさらなかったのである。